天智天皇中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)

日本書紀によれば中大兄皇子と大海人皇子は共に舒明天皇を父とし、
母を皇極天皇とする同母兄弟とされている。
これには多くの方が疑問を投げかけ種々の説を唱えられている。
勿論、私も同様でどうも合点がいかない。
そこでこれが正解なのだと云うものがあれば、
その決定的な論拠と共にお教え頂ければ有難い。

1)先ず、中大兄皇子はよいとして、大海人皇子は新羅系と云うよりは新羅の皇子「金多遂」であるとする説も根強くある。この点に就いても知りたいものだが、いずれにせよ、この二人は同母兄弟ではないと思われる。
それは天武天皇の出生年が「日本書紀」から脱落しているのは何故なのかとの疑問にも結びつく。
「日本書紀」は天武の皇子「舎人親王」を中心に13人にも及ぶ高級役人達が携わった訳で、単なる書き落としとかミスとは思えず、何か書けない特別な事情があったのだろうと思われる。
天智が
671年に46歳で没し、一方、天武は686年の9月に65歳で逝去しているから、天智が没した時点で、計算上は天武は50歳だったと云うことになる。
天武のほうが天智よりも4歳年上で、明らかに弟ではないと言う事が判ってしまうからだろうか?

取り立てて書く程までもないのですが、別件で天武・天智前後の皇統系図を作成
しましたのでご参考に供しましょう。

2)日本書紀では天智は近江宮にて病没したとされている。
一方「扶桑略記」では山科に狩に出掛けた儘帰らず、捜索したが山中に沓だけしか見つからなかった為、已む無くその地(現京都府山科)に墓陵をつくったと記されている。
では若し拉致されるか殺害されたのであれば、誰が犯人なのだろうか。
もっぱら大海人皇子かその仲間だろうと云われるが、一体、真相は如何だったかを知りたいものである。

「扶桑略記」は叡山の僧「皇円」が著した平安末期の歴史書で後世のものだから信憑性に乏しいとされるが「日本書紀」とて天武天皇の命により編纂されたもので、自分に不利なことは一切省かれているはずだから、どちらも信頼性に欠けることには変わりはない。

3)京都東山区にある通称「御寺」(みてら)「泉涌寺」は中世以来歴代の天皇家の菩提寺として、今でも多くの人々の篤い信仰を集めている。

ところが、この「泉涌寺」の歴代天皇を祀る仏間「霊明殿」から、不思議なことに天武系の9人の天皇即ち、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳の位牌だけが除外されており、天智からいきなり光仁、桓武へと続いているそうである。
この辺の事実関係を家系図の上で明確にする為、天智・天武両系統の家系図を作成しましたのでご参照下さい。

これで明らかなように現在の天皇家は天智天皇の流れであり、天武天皇の血筋は
孝謙天皇(称徳天皇重祚)で途絶えていることが分ります。

勿論、今日に於いても「泉涌寺」は皇室の菩提寺には変わりなく現に総裁に秋篠宮文仁親王を戴き、経団連名誉会長の奥田碩氏を会長として「御寺泉涌寺を護る会」が連綿として御寺の維持運営に努められている由。

これらは一体何を表わしているのか、この辺りに日本古代史の謎が隠されており、「日本書紀」は真実を伝えていないと云われる所以なのではなかろうか。