第三日目(6月19日)曇り時々雨

この日も薄曇りのすっきりしない天気だったが、西安市西郊外の「乾陵」「茂陵」「咸陽市博物館」「清龍寺」と車をフルに活用し回る事とし9時にホテルを出発した。
日本を出る前に、6年ほど前「乾陵」を訪れた経験ある友人から“砂塵が巻きあがり、道路が大変だよ”と脅されていたが、その後建設されたのだろう見劣りしない立派な高速道が整備され、乾陵の麓までは快適なドライブだった。

「乾陵」は唐の第3代皇帝の高宗とその妃の則天武后の合葬墓で、渭水を越えて広がる丘陵地帯の中に聳える「梁山」を利用して造られている。



20mもあろうかと思われる幅広い参道の両側には、北京の明の十三陵などに見られる、象、虎などの動物に混じってペルシャの流れを汲むペガサスなどの石像が配されている。
色鮮やかな壁画があるといわれる石室はたまたま補修工事中で入れなかったのは誠に残念であった。

次いで「茂陵」に回った。高原の畑の中、漢の武帝の墓、「茂陵」の墳丘がある。武帝は北方遊牧民族、匈奴をモンゴルの地に追いやり、シルクロードを拓かせた帝王として名を成しており、その事績を誇るがのように方形の墳丘の一辺は230mあると云う。



武帝が彼の死を悼んで造営させたものと言われ、墓の前に高さ2mほどの「匈奴を踏みつける馬」の石刻があり、これは正義が悪に勝つとの象徴だ。
これは前漢期の傑作で、中国石彫刻の伝統がここに始まったと言われている。

「咸陽市博物館」
茂陵に別れ西安に戻る途中、咸陽市を通り「咸陽市博物館」に立ち寄った。西安市の西を流れる川が渭水で、川を隔てた対岸が咸陽市である。

中国では昔から旅に出る人を送る詩として知られ、わが国では詩吟で吟じられいる、王維の詩
「渭城の曲」に出てくる。
渭城の朝雨 軽塵を浥おす
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
西のかた 陽関を出ずれば 故人無からん

意味は読んで字の通りで、
“渭城に降る雨は軽い埃をしっとりとうるおす。”
“旅館の柳は青々と、雨に洗われてひときは鮮やかだ。”
“さあ、君、もう一杯空けてくれたまえ。”
“西の方、陽関を出てしまえば、もう酒を酌み交わす友人も居ないだろうから。”

と、云うことで「渭城」は今の咸陽市、西方に旅する時は西安(長安)からここまで見送る習慣があったと云う。

当初、長安は秦の始皇帝が咸陽市北郊の黄土台地に咸陽宮を造営した時に始まる訳だが、今では跡は無く、近郊から豊富に出土する秦・漢時代の遺物がこの博物館に収められている。
漢時代の兵馬俑や度量衡統一の基準に使われた升や分銅など貴重な展示物を見ることが出来る。

市の管理下にある所為か、峡西省歴史博物館や他の国家或いは省の管轄下の博物館に比して規模、管理状況が少し見劣りするようではあるが、展示内容物そのものは決して他に劣るものではなく、機会があれば訪れることをお薦めしたい。

若し長安から西安への変遷に興味のある方は別紙に小史を纏めてありますので
ここをクリックしてご一読下さい。

「青龍寺」 ここは秦始皇帝兵馬俑と同様、私にとって、今回どうしても訪れたい寺院であった。
西安市中心部から大体20分程で行ける東南の城外、小高い丘の上にあり、境内より街を望見する事が
出来る。
境内は非常に綺麗に整備されており築山や池もあって何やら日本の名刹の雰囲気すらある。それもその筈、
1982年、空海ゆかりの四国4県と真言宗の主たる門徒が中心となって、西安市政府、中国仏教協会の協力を得て、恵果・空海祈念堂、空海記念碑を建て境内を整備したのだと云う。

中国では唐代が仏教の最盛期であり、唐の名僧と言われた恵果が776年当寺に入り、真言密教を創設した。
当時はその密教を求めて内外から多くの僧がここ青龍寺を訪れ仏法を学んだが、中でも遣唐使「入唐八僧」の一人として804年、恵果に師事した弘法大師空海は業績抜群であり、密教阿闍梨を授けられた。

ここで少し余談になるが、私が学生時代、丸亀出身の友人から招待され、香川県多度津にある、観音寺、善通寺などを訪れた事がある。その際、空海は讃岐の国造家の出で生地は瀬戸内海に面した寺だったとの話しを聞いて居たが、青龍寺が一時観音寺と呼ばれた時期があったと知って、それなら矢張り観音寺がその寺だったのかと一人で納得したいた。
今回、この旅行記を書くに当たって、その友人に電話して、事の次第を話したが、彼の説明によると地元では、空海の生寺は観音寺だ、否、善通寺の近くにある海岸寺だと、論争が絶えず未だ決着はついてないと云う。

私は、空海研究家でも何でもないので、正解はお任せするが、いずれにしても多度津近辺の海辺に沿った五岳山のふもとの寺であった事は間違いなさそうである。それなら、四国八十八ケ所もあり、四国4県が清龍寺再建に多大の努力貢献したのも頷ける。

閑話休題はこの辺にして、お寺の処務所に入って、折角なので「般若心経」を買い求め寺僧より祈念印を戴いた。寺廊の壁には恵果と空海の別れの図が漢詩と共に、線刻された黒い石盤が填め込まれておる。

「同法同門喜遇深シ。空ニ随フ、白霧忽チニ峰ニ帰ル。一生一別、再ビマミエ難シ・・・」

これは空海が別離に際し詠んだ漢詩である。
今から約1200年前、自分が立っているこの場所で具現されたであろう、情景を偲ぶと、思わず目頭に熱いものを感じざるを得なかった。

空海が青龍寺を辞する時は、単なる日本の一学僧ではなく、第七世法王、恵果より真言密教の真髄の全てを学び、授けられ、第八世真言密教法王として帰国の途に就いたのである。

尚、余計な話かも知れないが、この年の6月、空海は恵果より伝法灌頂を受け「遍照金剛」の号を授けられている。「遍照金剛」とは大日如来の密号で、金剛とはその本体が永遠不壊であることを言い、遍照とは光明があまねく照らすことを指している。
大日如来の密号を生身の僧、それも外国の僧に与えられたと云うことは大変なことであり、それだけ空海が真に密教の後継者と自他ともに認められたことを意味している。

空海はそうして2年の滞留を経て806年帰朝、高野山で真言宗の開祖となったのは余りにも有名で多言は無用であろう。
尚、空海については、先般もNHKスペシャルで紹介されていたが、詳しくは1975年「芸術院恩賜賞」を受賞した司馬遼太郎の「空海の風景」をお薦めしたい。
陜西省歴史博物館

その後、初日に行った大鴈塔の近くにある、陜西省歴史博物館を訪れた。ここは周、秦、漢、唐各時代の王宮その他陜西地方の遺跡より出土した考古・歴史・芸術的文物を時代別に陳列しており、時間が幾らあっても飽きることの無い価値ある博物館であるが、撮影は禁止されていて残念であった。唐代の建築様式を取り入れた博物館の建物も素晴らしく、スペースも充分にあって館内にいるその歴史の厚みと云うか重さを感じさせられた。

又、敷地内に中国茶の販売所があり、中国茶道の講義付きで各種の銘茶を堪能することが出来る。結局各種の珍しい茶と湯を入れると外側の模様の色が変化する茶器など買い求め、結構な値の買物をしてしまった。以前は駐在員などに案内して貰って、街中のお茶の専門店で購入したものだが、最近では、このような観光客を相手にした茶の専門店が、何処の都市にも見られるが、結構何処も繁盛しているように思える。

「唐楽宮」

夜は観光客が一度は訪れる、古代歌舞を見せるレストランシアター「唐楽宮」で食事したが、食事は西洋人客にも受けるもので、我々日本人にはイマイチの感であったが、歌舞は本格的で中々の見応えがあり満足できた。
レストラン・シアターとしては規模は大きく、客席は後ろを高く段差を設け、2階も含めほぼ85%程は満席なのは営業的にも立派である。


<左上>は「玉関引」と称され、曲は「阮咸」と云い古代の撥弦楽器で合奏される。阮は琵琶の変形と考えられ、正倉院にも保存されている。曲調は哀切極まりない音色で、都を遠く離れた僻地の風情を伝えている。
<右上>は「秦王破陣楽」で唐の代表的な健児舞である。太宗「李世民」が帝位に就く前の貞観年間(627-649)秦王に封ぜられたのに因んで作られた舞踏。

<上>は「霓裳羽衣舞」で天人を歌った西域伝来の唐代屈指の舞曲。玄宗皇帝の作とも言われている。虹の衣をたなびかせて軽やかに仙女達が舞踊る。玄宗が楊貴妃を傍らに玉杯を重ねつつ堪能したと言われている由。
<右>は日本生まれの現代の“玄宗と楊貴妃”(そんな馬鹿な、アホかいな)が、終演後、舞姫と記念写真。わはは!!